本のはなし

2015年1月26日

曇り空の日はこんな話を。

 

AUTHORっていう名前にするくらいなので本はそれなりに読みます。

お店の中にもちらほら置いてあります。

 

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どうぞお好きに読んでください

 

でも本の蟲っていうほど常に読んでいる訳でも、詳しい訳でもなく

様はただの普通な本好きっていうくらいだと思います。

 

しかも次々に新しい本を探って、沢山読むというよりは、

同じ本を何度も何度も読み返す人です。

となると、実際は普通の本好きですらないかもしれません。

 

それでもやっぱり好きで、本を読んでいくことよりも、

読んだ本の内容についてその後にあれこれ考える事が好きなんだと思います。

そうですね、本を読んだ後が好きですね。

 

なので好みの本、例えば小説でいえば、ミステリーとかサスペンスとか時代物とか

明確なテーマや物語の起、結がこう、バーン!と示されているものよりも、

どこかのだれかの日常を切り取ったかのような、始まりも終わりも無いような、人によっては「結局どういうこと?」ってなるような、場合によっては評論家や他作家によるあとがきの方がエッジがきいちゃってるような、

すーん、と静かな物語がいいです。

 

こんなかんじです

すーん

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それはきっと物語というにはいささか退屈ですが、そういったものの方が

文章の流れや作者の言葉の選択や組み合わせの妙が見て取れて、読む側に考える余白を

与えてくれる気がしています。

退屈な物語でも好きな言葉やセリフが、ぽんっとひとつでもあればなんか好きになれます。

 

ふとした時に読み返してみると、その時々の気分や年齢や境遇で最初に読んだ時とは

違う感覚を得ることがあって、そこからなんでそう感じたんだろうっていう自問自答が

始まり、日々の振り返りタイムが始まります。ネクラですね。

 

あと昔から図鑑が好きです。

子供の頃は世界の魚とか植物図鑑とか、縄文図鑑とかを家でも外でも繰り返し繰り返し読んでいて、眼鏡も掛けていたので、さも勉強熱心な博学少年みたいに映っていたでしょうけど、目が悪くなった原因はゲームボーイですし、好きな遊びは釣りと穴掘りでした。

図鑑っていうものは世界の様々な事象を端的な情報として集めているものですが、生活圏内が家と学校と近くの野山くらいしかない少年にとってはだいたいの事柄が現実世界とは伴わないわけで、

深海2000mに棲む体の半分が顔みたいな深海魚や数千年前に作られたとされるジブリに出てきそうな遮光器土偶なんかはもう空想の産物みたいなもので、夢見がちな少年の好奇心を否応なしに刺激しまくりなのでありました。有柄銅剣なんてもはやエクスカリバーと一緒です。イタイですね。

 

遮光器土器

土器

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エクスカリバー

銅剣

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんな訳で、あの頃図鑑から得た知識は正しいことなんてこれっぽちも憶えていません。

得たものは何かから何かを想像(妄想)するってことです。きっと。

 

でも、先の小説や図鑑で培った想像(妄想)力は少なからず現在のお店のカタチに

繋がっている気がします。

場所や扱っている物、それに対する使い方の提案とかは自分を含む、それに触れた人たちの妄想(想像)力によっていかようにも変化ができるモノやコトを集めるということに重きを置いています。

 

それは ”価値の余白” と、なんかかっこつけて呼んでいるのですが、

あるモノに対して、価値や使い方を限定するのがおもしろくない、というかもったいないと思っていています。

なので、お店でもたぶん一番言う言葉が「好きに使ってください」という物売りとしてはなんとも不親切な説明(ですらない)であることは申し訳ないと思っているようで思ってないです。

 

あと、ここ数年大人になってきたので、エッセイなんてものを読みます。

特に、現在より少し昔の、だいたい5,60年くらい前の物書きが綴った徒然なるものが好きで、理由はあるのですが、ちょっと尺が長くなりすぎて後半は誰も読まないだろうなという気がしてきたので、

それはまた別のはなしということで、いつか書くかもしれません。

(昔読んだ漫画のセリフで「大人はすぐ”いつか”とか”また”とか使うな」っていうののが子供ながらグサッときたのを思い出しました。)

 

それではまた。