展示への寄稿2

2018年9月11日

寄稿1からのつづき―
 
 
 
今回の展示、彼女は”個展”とは題したくないという。
 
“ほしのはだ”という、彼女が活動初期から謳っていたことばをメインに添える今回は、
いうまでもなく彼女にとって現時点でのひとつの集大成となる展示であるのだが、
ここに辿り着くまでには、本当にたくさんの人たちの支えや影響があってのことなので、
自分一人では到底辿り着けることではなかった、という想いがあるからだ。
 
 
如何にも彼女らしい想いというか、直接その人柄を知っている人たちにとってはこの話にうなづけるところがあるんじゃないかなと思う。
田中友紀とはそういう人間なのだ。まっすぐで、嫋やかで、慈愛に溢れている。
 
 
また、もうひとつ、今展示の内容にも関わることが、その理由に挙げられるのだが、
今回、彼女と繋がりのある様々な作り手さん達から、ある協力を得ている。
 
それは、様々な物づくりの現場において多かれ少なかれ出てしまう、廃材等を提供してもらい、
それを彼女が新たな作品としてもう一度生まれ変わらせるという試みだ。
 
提供していただいたものすべてが直接的に作品の一部になれるというわけではないが、
間接的にでも彼女の作品づくりにしっかり反映されている。それぞれの廃材に導かれた作品づくりと言ってもいいかもしれない。
 
僕もまだすべての作品を見れている訳ではないが、提供していただいたさまざまなピースやそれを生み出した作り手の皆さんへの敬愛の念が、近くで見ていてひしひしと伝わってくる。
提供していただいた方々は僕自身も仲良くさせていただいているとても素晴らしい作り手さん達ばかりなので、こういった人の輪と繋がりを近くで感じれるということはとても幸運なことだと感じている。
 
 
<ご協力いただいた作り手の皆様(敬称略)>
 
日置哲也 ― 陶芸家・・・焼成中に割れた作品の陶片
さざなみ/オオジマホ ― 衣服作家・・・布端材
MIROKU COFFEE/梅村彰 — ロースター・喫茶店主・・・欠点豆等、焙煎後に出る廃棄豆
 
 
実は、この取り組みと制作方法に至った想いが、”寄稿1”の最後でほんのり触れた彼女と僕らとで一致した想いであるのだ。
 
 
作品を産み出し世の中に送り出していく彼女。作り手が産み出したものを世に送り出していく僕ら。
ほんの少し立場は違えど、その責任を重く感じているのである。
 
 
矛盾しているが、彼女も僕らも、もうこの世には十分な物で溢れていて、これ以上増やさなくてもいいんじゃないか。
そんなことを考えている。
過剰に物が溢れている世の中に、さらに新たな物を送り出すことで、どこかで生きながら死んでいく物が出てくる。
人間にとって、物の価値は流動的で、価値がなくなったもの、必要とされなくなったものはなんになるかといえば、それはゴミだ。
 
 
自分たちが頑張れば頑張るほど、この世のゴミと人間が決めつけてしまったものが増えていってしまう。
考えすぎかもしれないが、そのように考えてしまったのだから、もうその思いは消すことができない。
 
 
しかし、私たちも世の中の一部だし、あたりまえにゴミも出す。
彼女も僕らも、そんな葛藤と諦念を抱えて日々もがいている。
 
 
出来ることは限られているが、少しでも、ものづくりにおいて出てしまう廃材に向き合い今一度生まれ変わらせる。
それも、そんな廃材でしか生み出せないものにだ。
そんな考えに共感し、輪を広げていく。今は、これが精一杯だけど、今展示で楽しみながら感じて欲しいです。
 
 
彼女とはこの夏にこんなやり取りをして、展示の輪郭が出来上がっていった。
 
 
だから彼女は個展ではないという。
 
彼女がこれまでの人生で培ったもの、考え方、たくさんの人たちに教えてもらったこと。
すべてをまあるく繋げる展示。そしてこれからに繋げる展示。
 
そんな展示ってなんていうんだろうねって話もした。
「回顧展、、、だとなんか終わった後みたいだね。」
「確かに、むしろこっからが長いのに仰々しいね。」
 
そして彼女から”人生展”という言葉が出た。
そんな展示初めて聞くし、おお、なんか重いかなって最初は思ったけど、五回ぐらい口にしたら慣れた。
むしろそれくらいの思い入れがあるんだなと、余計に背筋が伸びた。
 
 
“ほしのはだ”っていう言葉は彼女にとって本当に大切な言葉で、
意味はこの世のことのすべて、ということ。
 
 
彼女の目に映るこの世のこと、この星の上のことは、どんな感じなんだろう。
 
この展示で触れることが出来る幾百の作品に、その答えはあるのだろう。
 
すべてが彼女にとっての”ほしのはだ”のカケラなのだから。