補修承ります・・・その1

2019年5月3日

 

 

お店を開いて、だいたい4年半。

 
MITTANというブランドを扱って、だいたい4年。

 
 
店主の偏愛と、ブランドの生み出す衣服の信頼性も相まって、
それなりの枚数を多くの方々に渡して参りました。
 
実際に手にして、日々の生活で着ていただいている方々ですと身をもって体感していただいていると
思うのですが、MITTANの衣服は着用と手入れを重ねるごとに、まるで別物の様に変化していきます。
もちろん良い方に。
 
 
最初からもちろん良いです。
何が良いかというのは、さまざまな価値観での見解があり、何かしらを見出して選んでいただいていると思うので、改めて語ることは野暮というもので、ここでは割愛します。
 
わかってる、わかってるよそんなことは、と皆さんも頷いてくれることでしょう。
 
 
さて、話を戻しまして、MITTANの衣服の変化について。
それを説明する為に、ここでは衣服を構成する生地、つまり使用される布自体にフォーカスをします。
 
 
衣服には最初が一番良い状態であるものと、使用を重ねるごとに良い状態に変化していくものの、前者と後者の二つがあると考えます。
 
前者は乱暴な言い方をするとファッション物という存在価値を前提に作られているものが多く当てはまります。
ある者の美学哲学を投影させた作品的要素、他者の視線に触れ評価を得る、もしくは他者との相対的な違いや優劣を競う為のもの、社会において、経済活動を促すための一つの要素、媒体として利用されるもの。
 
これらは、現代においては衣服に求められる価値の85%程を占め(と個人的には思っています)、故にこういったことを前提に生み出される衣服はそもそもが長く着られることを前提に作られておらず、物質的にも、(それを着用する人たちの中で)精神的にも非常に短命な存在として位置づけられています。
 
なので日常で着用すれば着用するほど、お洗濯を繰り返すほど劣化し、最初に手にした時のあの魔法は解けて、やがてタンスの肥やしに、もしくは毎週火曜日の燃えるごみの日に、運が良くても古着回収に回される運命でしょう。
 
そういった衣服の存在性は、生み出される時点で、細かく言及すると、原料、糸、生地の段階でほぼ決まっています。
そういうものなんです。生み出している本人たちがそのつもりでいるので、仕方ありません。
文章の端々に棘が感じられるかもしれませんが、私自身はそれらに対してまったくの否定派というわけではありません。
そういうものが有り、そういうもんなんだなと思っているだけです。
 
 
さて、それでは後者について。
使用を重ねるごとに使う側にとって利点の増す変化のあるものは、まずそれを生み出す人たちの意思が反映されているものと、無意識的でありながら結果的に長持ちし、且つ良い状態に変化していくものがあります。
 
前者はもちろん例を出すならMITTANの衣服で、後者は過去の時代(日本で言うと古代から昭和の前半くらいまででしょうか)に生み出されていた衣服です。
 
ただ、共通している意思はあります。
それは衣服を消耗品であると捉えていないということ。
出来るだけ永く、気持ちよく着ていきたいと思い、生み出しているということです。
 
 
 
しまった、、、
書きだしたらとても長く、重たくなってしまった、、、。いつものことですが。
全然タイトルの本題に触れていないし、全然おもしろくないですね、、着地できるのか。
 
“その2”に続きます。繋げます。
 

 
 
 

 
 
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